真似をしないで下さい、ATドリフトで“今となっては何とでも言える話でした。”と書いたら、どうせ信じてもらえないなら空を飛んだ事にしても良かったかな・・・。で思い出した事。それはフェアレディZ(GS30)の頃、山梨県で道を間違え元の道に戻ろうとしている時でした。左側に空地のような広い駐車場があったので、その中を回って道路に戻ろうとして左折。40km/h位で外周を回ろうとして間もなく助手席に乗っていた女の子の「キャー!」っという大きな悲鳴に驚き急停車。何事かと思い女の子を見ると引きつった顔で左側を指差していました。私は背伸びをして左側の窓を見ると、一直線に水路が見えました。まさかと思い右側を見ると窓の下から一直線に水路が伸びていました。私は何かの間違いであって欲しいと願いながらドアを開けると車体の下には橋などは無く幅1.5m深さ1.5mはある水路がありました。(目の高さから水面までは2m以上あったので怖かった記憶があります。)ただでさえ低い運転姿勢が、だらけていたので更に低くなり、平らな所に溝を掘っただけのような水路が私には見えなかったのです。脱出方法は私が窓から屋根に出て後側に下りリヤゲートを開けて女の子を下ろしてからレッカー車かな?と思いましたが。周囲に電話のありそうな場所は無いので、床下を擦ってでも戻ってやる!と決心。女の子に「バックするから掴まっていて!」と言ってギヤをバックに入れエンジン回転を5000回転に固定し、3・2・1と数えてアクセルを全開にしてから一気にクラッチをつなぎました。ダメで元々と思ったのに前輪に少しショックがあっただけで飛び越してしまいました。あまりに簡単に脱出できたので何か支える物があったのかと思い水路を見ても何もないのです。少なくても1.5mはある水路を急ブレーキで前輪が飛び越し、急加速で戻るなんて、どう考えてもありえない気がします。女の子が悲鳴を上げなかったら気が付かないで通り過ぎていたかもしれませんが、一瞬でも違っていたら水路の中だったという、運が悪かったら大変な事になっていた事を、またひとつ思い出してしまいました。







“空でも飛んだ事に・・・”で思い出した話その2「空でも飛んで来たのかい。」と言われた話。31.flowerD最終回。走り回り屋卒業。の“最後の走り”の時でした。場所は名古屋市内の国道1号線、呼続大橋からスタートし大府駅近くまでを9分で走ったのです。納品受付のオジサンは驚いた表情で車を見つめ「あんたの所は笠寺駅のあたりだったよな。何分で来た。」と聞きました。細かい事はいいかと思い「10分です。」と答えると。オジサンは伝票を持って事務所へ走って行きました。私がフェアレディZを所有していたのが驚きだったのかもしれませんが。車が発する音と熱風は異常だったのです。品物を下ろし事務所に行くと伝票の入力をしているおばちゃんに「笠寺から10分で来たんだってー!空でも飛んで来たのかい。帰りは、ゆっくり帰るんだよ。」と言われ受付の事務所を後に。出口に向けてバックしようとすると視線を感じたので振り返ると事務所の人達(10人位)が窓際に立って私を見ていました。そして別棟の事務所へ行くと私の係りの人達が4人で大笑いをしていました。私は○○さ〜んと呼び「納品してきましたー。どうもすみませんでした。」と頭を下げました。その途端、場は静まり返り驚いた表情で主任が駆け寄って来ました。私は、噂でもしていたのかと思いながら事務的な会話をして再度謝り事務所を後にしました。駐車場の車列から出てルームミラーを見ると、窓越しに私の係り4人が並んで見ている姿が見えました。私の係りの主任は意地が悪いと評判の人で、受付のオジサンも「あいつかー、こんなヒドイ事をする奴は!」と言っていたほどで。おそらく納品時間に間に合わなかった私が事務所の皆さんの前で謝るという筋書きだったのだと思いますが、黄色のフェアレディZが疾走する様子を目撃した人が守衛さんの他にもいたらしく、逆に主任が注意を受けたようです。しかし私は、この人に感謝をしています。なぜなら私に「急いで下さい!」と命令してくれたおかげで、今までに無い体験が出来たからです。詳しく書いても信用してもらえないと思うので、一番安全に感じた時の状況です。場所は新幹線と平行した道路(片側1車線)で前を行く2台の車を追い越すと、もう1台見えたのでそのまま加速。ところで何キロだろうとスピードメーターを見ると120km/h。な〜んだ120km/hかー!と思ったら、肩で止まっていた血液が流れるような感じがして、体がスーッと楽になりホッ!とした数秒間だけが、左右にも気を使わなくて良い時間だったのです。





ベビーカーと化していたフェアレディZがドリフトの出来る車だった事を思い出し、帰り道はフットブレーキでリヤを流しながら楽しく帰って来ました。数日後、大人気ない事をしてしまったかと思いながら納品に行くと。私に対する態度が一変していました。ほとんどの人が高校を卒業したばかりの勤労青年だと思っていたそうで。受付のおばちゃん達からは「歳は幾つなんだい、結婚してんのかい・・・。」と質問が飛び。同業者で私の顔にタバコの煙を吹きかけた事があった兄ちゃんは、私から逃げ回るようになり。外注係の主任は腫れ物にでも触るような態度になっていました。私は「急いで下さい!」と言われたので急いだのに、要注意人物にされてしまったようです。でも、親切な人が増え仕事がとても楽になりました。



車をいじるのが好きな I さんの話から。湾岸ミッドナイトのアニメで「車好きの二つのタイプ、血管にガソリン流れているタイプと、血管にオイルが流れているタイプ。つまり走り系と、いじり系ってところだ。」という話がありました。おそらく若い頃の私はガソリンタイプに感じたと思いますが、スピードが上がるのは眠い時や挑発された時で自分ではオイルが流れているタイプだと思います。車をいじり始めると食事やトイレが面倒になるのはいつもの事で、雨の日に傘をさしていじっていて笑われた事もありました。


車をいじると言ってもエンジンや足回りをいじる知識は無いので、主に内外装です。ナンバープレートでは、こんな事がありました。フェアレディZ GS30のリヤパネルはグレーだったので、黒に塗り替える事に。しかし、リヤのパネルには封印されたナンバープレートがあり自分で外すのは無理かな?と思いながら内装を外すとナンバープレートを取り付けているボルトが出ていたので折れた短い金鋸の刃で溝を入れ細いドライバーを使い脱着。ヤッタね!なんて思い数年後。整備工場の中を歩いていると、封印が沢山置いてありました。私は「ナンバーの封印って陸運事務所でやるんじゃないの?」と聞くと「何、とろい事言っとるんだにー、そんな事しとったら仕事になりやーせんがねー。欲しかったらいくらでも持っていきゃーええがね。」と言われ。こんな物貰っても仕方無いし、苦労して外す物でもない事を知りました。

白も良いかな・・・? 黒に塗装


フロントのナンバープレート。フェアレディZ S130の頃、私が留守の時に義父が乗る事がありました。そして必ずと言っていい位フロントバンパーを車庫の柱にぶつけるのです。その日も「またかよー!」と言いながらバンパーの歪みを直しナンバープレートを仮止めした時「風呂に入りゃー。」と呼ばれ、ネジを締めるのは明日にしようと思い車庫へ移動。(購入時はバンパーの前にナンバーが取り付けられていますが、カッコ悪いので移動していたのです。)数日後、妻とドライブへ行くと料金所で「ナンバーは何処にあるんですか?」と聞かれ「バンパーの下にあるでしょう!・・・。」それでも探しているので、車の前に行き「ここ!」と指を差すとナンバープレートが無かったのです。そこでネジを締め忘れた事を思い出し。そういえば変な音がした場所があったので、帰り道探してみましたが見つからないので、付近の交番へ電話をすると「そんな落し物はありません。」と言われ、数日間、白いプラスチック板にナンバーを書いて走っていました。そんな事がありS130は多摩ナンバー→名古屋ナンバー×2で、3枚の異なったナンバープレートが付いた写真があるのです。ナンバープレートは安いのですが、手間がかかるので落とさないようにしましょうね。




車内で暑かった事、寒かった事、何も感じなくなった事。フェアレディZ(GS30)の頃で、8月末の夜でした。名古屋インターに入ろうとした時(またトラックの排気ガスの中を走るのはイヤだなと思い)中央高速へ。この頃は諏訪湖の近くまでしか開通していなかったので交通量は少なく、その時は他の車は無く周囲も真っ暗で眠くなってしまいパーキングで少し寝る事に。寝やすい場所を探すのも面倒だったのでトラックの間に停車、転がるように後部荷室へ行き熟睡・・・。そして、焼けるような熱さと顔を流れる汗で目を覚ますと正面に太陽が見え体中から汗が噴出していました。あまりの熱さに飛び起きて車外に出ると誰もいないパーキングに私の車だけがポツンとありました。1〜2時間だけ寝るつもりだったので、トラックの音を避けるため窓を閉め切って寝たので、朝になり夏の日差しで車内は温室のような状態になったのです。とにかく直射日光を避けなければと木陰に車を移し、また寝てしまいました。




この日は名古屋に戻り妻(結婚前)と関ケ原へ(まさか戻って来るとは思わなかったらしく、遊びに行く所を考えていなかったようです。)そこでギャランGTO-MRとダウンヒルバトル?夜東京に戻ろうとして名古屋市内で117クーペとシグナルグランプリ??東名高速でスカイライン2000GTと最高速バトル???そしてトラックの側面に衝突しそうになり気を失ってしまったようなのです。競争をしていたスカイラインの兄ちゃんに「昨日から980km走っているんだ。」と言った記憶があり、疲れていると自制心が無くなる事が良く分かる1日でした。




そして1ヶ月と少し過ぎた10月上旬。東京も名古屋も、まだ秋の気配すら感じない頃、また中央高速へ。相変わらず道は空いていて15分に1台ぐらい対向車を見る程度で光はパーキングとバス停のみ。道が空いている事を良い事にアクセル全開。しばらく走ると雪がちらつき始め、直ぐに激しくなり車内は寒くなってきたのでヒーターを入れる事に。しかし、暖かくならないので水温計を見ると通常よりかなり低い位置を指していました。こんな事でオーバークールになる車じゃないんだけどと考えていると、音楽が聞こえにくくなり背中に悪寒を感じるので、恐る恐るルームミラーを見ましたが異変は無いものの、とてもいやな感じがするので、吹雪の中をアクセル全開で走行。諏訪湖が近づくと吹雪は止み、一般道路に入ると、さっきの吹雪は何だったのかと思うような生ぬるい空気になりました。それでも、いやな感じに追いかけられるように20号線を疾走、大月インターから中央高速に入った頃やっといやな感じは消え無事帰宅。その後、変わった事は無く、きっと睡魔と闘っていたんだなと思いましたが、夜の中央高速で東京に帰る事は無くなりました。焼けるような熱さで目を覚まし、高速道路で夜空を漂うような体験をし、吹雪の中を走ったのが、わずか1ヶ月ほどの間の出来事だったという話でした。



私が最初に手にした車、日産チェリー 1000tはFF車の為コーナーだけは速く。狭いコーナーでフェアレディZ を追い回す事もあり。フェアレディZは飾りで乗っている人が多いとバカにするようになりました。そして私がフェアレディZに乗るようになると、同じ理由だと思いますがシビック等のFF車に挑発される事がありました。場所は郊外の直線道路で、なぜか女性連れの車が多く、追い越す際に助手席や後部座席の女性が振り返って見ているのが、とても気になり山道や高速道路に入ればブッチ切ってあげました。前回の話の中で関ヶ原と東名高速の話は前に書いているので街中でも速くなったと感じたシグナルグランプリの話です。






関ヶ原から名古屋に戻り、夜10時半過ぎ東京へ帰る時でした。新瑞橋を過ぎたあたりで赤信号で止まろうとした時、左車線に、いすず117クーペ(DOHC車)が止まっていたので(この車もいいなと思い)見ると。20歳半ばの男女が私の方を見ていました。私は視線をそらしましたが117クーペのエンジン音が煩いので横を見ると、ドライバーはシグナルグランプリの構え。私は今から350km走らなくてはならないので無視しようと思いましたが、助手席の女性が覗き込むような姿勢で、こっちを見ているので気分を害し(やるかー!と)エアコンのスイッチを切り亀の競争がスタート!






1速互角。2速へシフトアップ横を見ると女性がドアに寄りかかるような姿勢でジーッと見ているので負けられないと思いタコメーターがオーバーレブしたままアクセルを戻さずに3速へ。一気に車体半分リード。そこで相手は諦めたようでしたが、仲良くする雰囲気では無いのでブッチ切る事に。速度は110km/h更に加速して間もなく東名高速右の看板が。減速して追いつかれるのも面白くないので交差点ギリギリまで加速する事に。対向車は4〜5台、このままの速度なら前を横切れる・歩行者や他の車に邪魔されたら直進するか左折と考えながら片側3車線ずつの交差点に近づくと、右側の横断歩道にはスカートを履いた歩行者が5m位で渡り終わるところで、左右の歩道に人影は無い事が分かり、右折する事に。3速140km/hからフルブレーキで2速80km/h、アクセルオンで対向車の直前を横切りました。いやー、恐ろしい事をするものだ!と思いながらスピードメーターを見ると120km/h。117クーペはブッチ切ったからもうスピードは出さなくてもいいと自分に言い聞かせ減速。そして無駄な事をしてしまったと反省(いつもはエンジン回転を上げ誘いにのったふりをして、信号が変わったらアクセルを戻し「ガンバレ〜!」と、手を振って相手にしなかったのです。) そして気が付いたのは4ヶ月前は120km/hでも余裕が無かったのに、140km/hでも周囲に気を配り、状況に応じた危機回避を余裕を持って考えていた事でした。





歩道の同じ場所からの写真です。B君に付き合ってもらい名古屋の街中を120km/hで走った頃は、まだ右写真のように見えていました。それから約4ヶ月、高速道路を少なくても4000km元気に(右の靴が、くの字に変形するほど力を入れ続けて)走ったら120km/hを越しても視野が狭まらなくなり、考えなくても車が動くようになり、ほぼ全神経を危険回避に使えるようになっていました。しかしメーター200km/hオーバーには対処出来ず1時間も経たないうちに衝突しそうになり、意地や根性で生き延びるのは難しい事が分かりました。ちなみに私が生き延びたのは“運が良かった”のとハイパワーな車で無かったからだと思います。