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歴史の散歩道 「霊山」 日本史のなかに一度だけその名が突然として登場する。 時は14世紀、建武の新政で陸奥守に任命された北畠顕家が、それまで多賀城にあった陸奥の国府を、西暦1337年、霊山城に移したことによるものである。事の起こりは守護、地頭の土地の領有権について時計の針を逆戻ししたかのような方針で望む建武の新政、後醍醐天皇〔南朝〕と武家政権を目指す足利尊氏〔北朝〕とが対立した南北朝動乱の時代である。当時の霊山には山頂に霊山寺があり三千を数える僧兵がいたと言われている。そのため、難攻の要害の霊山城に拠点を移したのも当然と伺える。霊山は、西暦859年比叡山延暦寺の座主円仁〔慈覚大師〕の開山と伝えられており、釈迦が修行したインドの霊鷲山になぞらえて命名されたと言われている。その間470年余、東北山岳仏教の中心地として栄えていたという。 西暦1347年霊山城が落城した時に霊山寺も焼き払われ跡形もなく消え去ってしまった。歴史にもしもは無いが、もしも山頂にそのままの霊山寺が現存していたならば山岳仏教の本山として世界遺産に登録をと、さぞかし物議をかもしていたに違いない。現在山頂には当時の面影を忍ぶものは何も無い。 |
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現在の霊山寺は西暦1641年に寛永寺末寺として復興したが本堂は焼失し、阿弥陀堂が現在の本堂となっている。 | ||||||||||||
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霊山寺岩瀧不動明王 山頂にあったと思われる黄金の不動明王像が瀧の中で黄金の輝きを放ってキラキラと光っていたのを見つけそこに祀つたと言われている。 祭礼は毎年 新暦11月3日 霊山寺住職を招き氏子一同でおこなっている。 |
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霊山神社 北畠顕家を祀っている。第二次世界大戦前は別格官弊社として天皇の功臣として祀られていた。 祭礼は4月29日春季例大祭 濫觴の剣舞はことの始まりを意味する。 |
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